ご挨拶

17歳、当時高校2年生だった私は、肉体の全盛期で、背炙山(せあぶりやま)を超えて中田浜まで往復40キロ走っても疲れない体力と、毎日腕立て腹筋背筋スクワットジャンプを200回を2セットをしても筋肉痛にならない筋肉を持ち、卓球の練習は最低1日3時間、多い日は8時間以上練習していました。

そんな私がオールジャパンの地区大会予選で、70代の選手に、完膚なきまでに敗れました。文字通り手も足も出ませんでした。スポーツテストの種目では、何一つ負ける気がしないのに。
その場で起きているすべての事はその達人の思うがままにされていたようでした。
悔しくて泣きながらギャラリーで仲間の試合を見守った日の映像が今でも思い出されます。

昭和・平成の時代を生きた人にとって、愛ちゃんこと福原愛選手を知らない人はいないでしょう。彼女がラケットを握ったのは3歳の時です。そして小学生の時には大学生の選手を破っています。
3歳から70歳まで同じルールで戦うことができるスポーツは他にあるでしょうか?

真の生涯スポーツとはなんでしょうか?
私たちの答えは「卓球」です。

かつて西若松卓球場恩鶴という会津の卓球人の集う卓球場がありました。
創設者の金子登さんは会津工業の伝説的な卓球選手で、引退後ふるさとで卓球場を開くという夢にのせて、私たち全会津の卓球人の憩いの場を作ってくださいました。
金子さんが亡くなった後も、奥様と常連の卓球人の皆様がずっと守り続け、恩鶴杯という大会には300名近い選手が参加していました。

しかし、コロナ以降なかなか営業再開の目処がつかず、ついに奥様が恩鶴を手放す決断をされたちょうどその頃。
失ってしまった恩鶴という憩いの場を求め、私たち天糸瓜クラブは卓球場を始める場所を探していました。
ネットの物件情報を毎日のようにチェックし、会津中の物件に足を運びました。
どれも帯に短し襷に長し。
なかなかちょうどいい物件は見当たりませんでした。
そんなある日「卓球場あるよ!」と声をかけてくれたのが、恩鶴を守り続けてきた常連さんの息子さんでした。

不思議な縁で、天糸瓜クラブ卓球場恩鶴をオープンすることができました。

私たちの理念は美容と健康です。
これは2005年に天糸瓜クラブが設立してからずっと変わっていません。
美容とは見た目の美しさだけではなく、健康とは肉体的な健康だけでなく、身も心も美しく健康であることを意味しています。
全世代を通して一緒に体を動かす喜びと、汗をかいて飲むキンキンのビールの美味しさを、いくつになっても変わらず味わうために、私たちは卓球を通して美容と健康を体現します。

なんとなく、金子さんにそう教わったような気がするからです。

天糸瓜クラブ代表 馬場法孝